2014/08/12使い方の修行
誰かが書いていた、
「この世の中そのものが、われわれにとっては道場であります。
生まれて死ぬまで人間は修行しているものと思われます。
それは 「使い方」 の修行です。」
から始まる文章に、
禅の言葉を思い出した。
「歩歩是道場(ほほこれどうじょう)」
好きな言葉である。
何故ならば、
様々な道場へ行って、
座禅をして、しびれる思いをしたり、
滝に打たれて、震える思いをしたり、
断食して、空腹感に苦しんだり、
自己啓発して、人前で恥をかいたり、
瞑想して妄想して棒で思いっきり肩を叩かれたり、
などの修行をしなくても、
日々の中のすべてが修行なんだから、
無理すんなよ!
と私には聞こえるからだ。
言い換えれば、
楽しくて、嬉しくて、可笑しくて、幸せな時も、怠けてゴロゴロしている時も、
そこは 「道場」 なのだ。
いつもながらだが都合の良い解釈ができる自分にほれぼれする。
さて、その「使い方」の修行だが、
身体の、使い方
心の、使い方
力の、使い方
知恵の、使い方
お金の、使い方
いろいろある。
それを鮮やかに、爽やかに、
正しい使い方
自然に添うような使い方
気持ち良い使い方
それを毎日修行する。
人生は、そのための 「心づくりの道場」 である。
と言っている。
では、その 「心づくり」 だが
身体は、元気だし
心は、常に軽やかで透き通っているし
力は、無駄にあるし
知恵も知識も知能も、高くて、謝りたいくらいだし。。。
ただ一つ無いのは、「金」だ。
これだけは正直に言おう。
だから、
お金の使い方を考えてみなくては、
と思っていたら、
かつて、5000億円を運用したことのある、
元カリスマ・ファンド・マネージャーの話に
出会った。
素早く結論を言えば、
「成功後、実存的虚無に陥り、暗く、深い虚無を感じ、
何もかも嫌になって、生きていることに何の意味も感じなくなり、
燃え尽きてしまった。」
ほれ見ろ。
で、そんな彼を救ったのは、
「教養」 だった。
「虚無」 とは正反対の 「充実」 したもの、
それが 「教養」 である。
と言っている。
それでは、
「教養」にお金を使う意味とは、どういうことか?
〇文化を創ること。
それには、お金を使わないと創れない。
〇物のピンとキリを知る。
それには、買ってみないとわからない。
〇学問のために遣う。
学問は、人の質を上げ、それは、人生においての最高の道楽である
と言っている。
さらに、
物やお金があり、欲や得に重きが置かれていた時に、
本来の自分の魂の在り方がなおざりにされてしまったことが
これでよいのだろうか、これが幸せなのだろうか。
自分がこの世にいる100年の間に自分も幸せで、
他の人も一緒に幸せになっていくという本来の生き方を自分としていきたい。
それは会社という場であっても、家庭という場であっても、
自分が所属しているのがどこであっても、
本来の自分の生きかたを、
自分がどう生きたいかと思うことが大切だ。
と結論に至る。
そこで教訓
お金は、生きる手段であって目的ではない。
お金は、多様な価値への仲立ち、橋渡しにすぎない。
お金は、使わないと入ってこない。
お金は、使っても、お金に使われるな。
言ってることはよくわかった。
とはいえ、
お金の使い方の修行をしてみたくない人はいない。
「お金に使われるな」とはよく聞く言葉だが、
使われてみないとわからない。
やはり 「大金の使い方の修行」 やってみたいものだ。
さて、それでは原資はどうする?
当然、仕事でしょ。
売り上げを上げて、それに見合う報酬をたくさんもらえるように
頑張る!
目標、100億!!
。。。
実存的虚無感に陥ってみたいものだ。
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